『嫌われた監督』と、嫌われ者の私

思索エッセイ

「嫌われた監督」。

重たい体で本屋の中をフラフラ歩いていた私の目に、そのタイトルが飛び込んできた。
私はしばらく、その言葉から目を離すことができなかった。

私は物心ついたころから、友達に嫌われていると思っていた。
どうしてそんなふうに思うようになったのか、もう思い出せない。
ただ、人の視線が怖くて、いつも相手の顔色を窺っていた。
友達と遊んでいても、どこか緊張していて、あまり楽しいと感じた記憶がない。

嫌われているのではないかという感覚を抱えて生きていくのは、なかなか苦しい。
小学生のときに行ったキャンプのことを、私はよく思い出す。

私とみんなは、キャンプ場の小屋にいた。
あたりはすでに真っ暗で、外では騒がしく鈴虫が鳴いていた。

私はみんなの輪に入りたかった。
その輪は、とても楽しそうに見えた。

勇気を出そうとしていたそのとき、
「なにみてんだよ」と、ある子が私に言った。
その視線は、とても冷たかった。

私はその場から動くことができず、ただ自分の足元を見ていた。

あのとき私は、あまりにも辛くて、自分の感情に蓋をした。
そして考えた。なぜ私は嫌われてしまうのだろう。

でも答えは出てこなかった。

鉛のような重いなにかを背負ったように、体はうまく動かなかった。

そしてその夜、私は考えることをやめた。

「私は嫌われ者なんだ」

そう思うことにした。

その自己イメージは、大人になった今も、心の底のほうに根強く居座っている。
他人の視線や表情が気になり、職場でもほとんど緊張したままでいる。

「嫌われた監督」に出会ったあの日も、仕事の激務と人付き合いの気疲れで、私は満身創痍だった。

なぜ私は、その本のタイトルから目を離すことができなかったのだろう。

表紙に写っている落合博満が、
「嫌われても気にするな」と私に語りかけているように感じた。

嫌われることなんて、たいしたことじゃない。

そんなふうに、誰かに強く寄り添ってもらいたかったのかもしれない。

気づけば私はその本を手に取り、レジの列に並んでいた。
正直に言えば、そのときの私は、落合博満にも、野球にも、監督業にもほとんど興味がなかった。

本を読み進めるうちに、私は何度も涙を流した。

『嫌われた監督』の中には、落合の優しさが垣間見える場面が何度もあった。
落合自身も、本の中で涙を流していた。

世間の評価がどんなに冷たくても、自分の考えを貫いていた落合は、決して「嫌な奴」ではなかった。

他人から嫌われることは、生きていくうえでそんなに重要なことなのだろうか。

本を読み進めるうちに、私はそんなことを考えるようになった。

他人の評価よりも大切なものがあるのではないか。
それは、自分の信念に従って生きていく強さなのかもしれない。

私にも、大事にしている信念がある。

人に優しく、丁寧に接すること。

それは時に、その人を救うことにつながると思っている。

嫌われ者だと思いながら生きてきた私が、一番求めていたものが、他人からの優しさだったからだ。

嫌われる恐怖に怯え、今にも倒れそうな私は、それでも倒れてたまるかと踏ん張って生きてきた。

倒れそうになっている誰かを、私の優しさが少しでも救えるのではないか。

そう信じて、私は「人に優しく丁寧に接する」という信念を貫きたいと思っている。

その信念を、まず私自身が大事にしてあげれば、たとえ誰かに嫌われても、それでいいのかもしれない。

私は私らしく生きていけばいい。

こうして文章を書いている今も、実はまだ他人からの評価を恐れている。

それでも私は、私にしか書けない文章を書いていこうと思う。

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